高橋パインのスポーツエッセイ

スポーツは人生だ!
熱血、女子サッカー物語 その11

二〇〇三年一月十四日、ちょうど初入院から半年後、ハワイにいた私におばあちゃんからの手紙。
メールではなくて手紙・・・たぶん、よほどの伝えたいことが詰まっているんだろうと私は思った。

 

「拝啓
今日子様
燦々と降り注ぐハワイの陽光の下、今日子も大学の難しい仕事に頑張っておられること、私は大変嬉しく、また、羨ましく思います。
昨夏に貴方と行った奥日光や軽井沢の楽しい思い出もつい昨日のように感じ、今日この頃のこちらの冬の寒さを思えば、一昨年の年末から二月にかけて訪問したハワイにすぐにでも帰りたい気分です。
さて、今日、このようにお手紙をお出ししたのは、私の体のことを正直にお知らせしたからです。
びっくりしないでください。
私は肺癌で、あと一年がせいぜいの命ということが解りました。
パパは去年の入院の時に先生からお聞きして、ひとり知ってました。さそがし、それも辛かったことと心中察します。
年末に再入院した時、なんだか変だなと思った私は(八十年近くも付き合っている自分の体の異変は自分が一番よく解ります)、パパと先生を呼んで正直に自分の病状を言ってくれと頼んだんです。
二人とも最初は、悪性の肺炎だと言い張ってましたが・・・でも、私が、残り少ない人生をできるだけ後悔をしないよういに生きるためは時間が無さ過ぎるから、どうか正直に『あとどれくらい生きれるか』言ってください、と頼んだところ、パパはついに白状しました。パパは所詮私の息子、嘘はすぐに解ります。
こんな状況を今日子に知らせようかどうか迷いましたが、やっぱり私とて貴方に嘘を突き通す自信もなく、手紙で知らせようと思った次第です。
あと半年なのか、一年なのか、二年なのか私の命は解りませんが、これからも一生懸命に残された時間を過ごすつもりですか、是非、今日子も協力してください。
私の残された人生の喜びは、今日子が頑張って生きているのを見守っていること、そして、もう一回絶対にハワイに行くこと、ついでに書けば、ジーコが皆を連れて二〇〇六年ドイツワールドカップの出場権を得ること・・・
私の余生、今までと変わらずお相手をどうかよろしくお願いします。
敬具
最愛の孫娘へ 平成十五年一月 好江婆

 

追伸 白洋女子大サッカー部が3年ぶりにインカレに出場。ベスト八までいきました。」

 

私は胸が痛くなり、鼻の奥がツンとした。
人間の「死」というリアリティに直面すると、どんなに理屈をつけても、この現実からは逃げられないことを知った。
つけっぱなしのFMからハワイアンの切ないウクレレが流れていた。

 

 

その夏、おばあちゃんは、やっぱりハワイに来た。この時、七十九才。
これが肺癌患者と思うくらいにアクティブに行動し、和洋中イタ、ハワイアンと何でもござれとご飯もたくさん食べた。
「この私の死にそこないの元気は、薬の力ではなくて、間違いなく『マナ』と綺麗な海の『マイナスイオン』のおかげだね」
おばあちゃんは、姉夫婦がロスの帰りにハワイで合流、皆で行ったヒルトン・ハワイアン・ビレッジの鉄板焼「紅花」で、マイタイ片手に豪快にヒレステーキを頬張りながら言った。
ハワイには「マナ」と呼ばれるか超自然の力、神の力というか魂が宿っているという伝説があって、誰もが元気に、そしてハッピーになれると信じられてる・・・私もその時、この、おばあちゃんお生きるパワーは絶対、「マナ」のチカラだと確信した。

 

肺にできた癌は、リンパ線に転移し、ゆっくり、ゆっくり段々とおばあちゃんの体を蝕んでいった。その年の年末年始に三ヶ月滞在したのが最後のハワイの楽園生活だった。
私はハワイ、いやアメリカでは一般化している、それこそ「マナ」いっぱいのハワイのホスピスへの入所を勧めたが、どうしても首を縦に振らなかった。
両親も姉も皆も勧めたが、でもダメだった。
いつもおばちゃんは言った、
「こう見えたって私だって、いろいろ日本でやることもあるのよ」
このいつもの答えには一同、まったく「?」だった。
おばあちゃんの様態のせいでもないが、二〇〇四年の十二月をもって私はハワイを一旦撤収、七年ぶりに帰国を決意。藤沢にある大学の心理学研究所に転職することにした。

 

 

ジーコジャパンがドイツW杯出場を決めた二〇〇五年六月四日、図ったようにその翌日だった。
去年の二月の一次予選オマーン戦から薄氷を踏む勝利、マスコミからのジーコ采配に対する疑問に対して、
「馬鹿マスコミが何を言うか、まったく。私はジーコを信じる。絶対に大丈夫・・・私はジーコの運の強さを知ってるんだから」
と空を見つめ自信一杯に言い放ち、ジーコ率いる日本代表の最終予選突破を信じて疑わなかった。
その日の夕食はもちろん特別注文の「カツ丼」、慶応病院の七階特別室のテレビに映るは、灼熱のバンコク・スパチャラサイ・スタジアム、無観客試合で行われた対北朝鮮戦を日本代表は二対〇で制し、ジーコジャパンはドイツへのチケットを手に入れた。

 

おばあちゃんがサッカーの虜になったのは一九六四年東京オリンピック。私が幾度となく聞いた話・・・雨の国立。
とにもかくにもおばあちゃんは何故だか観戦に行っていたらしい。試合は、大方の予想を裏切り、早稲田大学・釜本選手のセンターリングを川渕選手が頭で決めて優勝候補のアルゼンチンから奇跡の勝利でベスト八進出、おばあちゃんは「人生、一生懸命は報われる」と実感し、それを以後の人生訓とする。
そして、メキシコオリンピックの銅メダル獲得に狂喜乱舞・・・しかし、世の中そんなに甘くなく以後、日本サッカーは暗黒時代へ突入、一九九三年のドーハの悲劇、一九九八年のカズ抜きの不完全燃焼のフランスW杯初出場、予選免除の二〇〇二年の日韓大会・・・雨の国立、あれから苦節四十年、ついに彼女の半生をかけた正々堂々の夢が叶った。
その翌日、彼女は静かに八十二年間の人生の幕を閉じた。

 

 

翌日に仮通夜、翌々日に通夜を自宅でやり、本葬を堀之内斎場で行うことになった。
父親はなんか、当たり前かもしれないが元気がなかった。
姉もかもしれないが、私は起きている事象があまりにも淡々と通り過ぎていき、まるで夢を見ているようだった。現実の悲しさをもう一人の私が冷静に見つめているような・・・。
でも、その夢を見ているような私の虚無感を吹き飛ばす出来事が仮通夜から始まったのだ。

 

仮通夜の準備をしていた夕方、通夜にニッコリでもないが、ニッコリ笑った田崎マコトが現れた。
「よっ、久しぶり、元気?」
元気ったって、通夜なんだから元気なわけもないが、私も、
「おっ万年代表補欠じゃん、嬉しいね、手伝いに来てくれたんだ」
と照れも隠してヤツに言った。マコトは、
「うん、当たり前じゃん。きっと後でみんな来るんじゃないの」
と言った。え?と私は思ったが・・・次に順子と由美と美佐が来た。
「何で知ってるのよ?」
と私が疑問を呈せば、後輩から聞いたと言う。
「後輩からって?」
ゆいと美和子、翔子に寛子、次から次へ懐かしい、インカレをベスト四まで勝ち上がったメンバーが顔を揃えた。

 

GK 大熊順子・・・実家の鎌倉・和菓子「たらふく」女将
DF 沢井ゆい・・・ラジオ局。高校野球担当デスク
DF 吉田由美・・・実家の巫女。幼稚園副理事
DF 大城美和子・・・ビール会社退職後、実家の洋食レストラン
DF 神保佳乃・・・外資系ホテル。シンガポール駐在から帰国
MF 山本ゆかり・・・脳神経外科医と結婚。二人の子持ち
MF 川島美佐・・・実家の新橋・明月庵(信州蕎麦)
MF 森部翔子・・・テレビレポーター
MF 和泉今日子・・・大学職員
FW 田崎マコト・・・サッカー選手。
FW 佐藤寛子・・・社内結婚。サンパウロ駐在から先月帰国。
全員が揃ったのは卒業以来はじめてかもしれない。
私はもう一度、誰とはなしに聞いた。
「誰から聞いたって?後輩からって?」
順子が答えた、
「あんた、ハワイに行ってて知らなかったかもしれないけど、おばあちゃんはずーっと、うちらのサッカー部の面倒見ていたんだってさ。私たちが卒業してからもさ、ずーっと今まで、癌になっても、最後の入院の前の日まで・・・」
佳乃が続けた、
「グランド取りにずーっと後輩たちのために区役所とかに朝から並んでくれてたんだって・・・」
「凄すぎるよ」
とマコトは涙は我慢できなかった。
私は全く気が付かなかった。
おばあちゃんは私に、サッカーの事は内緒にしていたのだ。

「おばあちゃんは、今日子とサッカーとのしがらみを無くしてあげたいなぁって言ってたもんね、別に世界へ開放してあげたいってさ。今日子が代表から落選した時に言ってたよ・・・年寄りが自分の孫を、自分の夢のために縛り過ぎたら申し訳ないってさ」
と由美が言った。聞いていたマコトが、
「・・・そう」
と首を縦に振った。
きっと私が代表に落ちた時、私自身の切なさ以上におばあちゃんは悔しく、そして辛かったのだろう。趣味で始めさせたサッカーで、もう私にこんな気持ちを味あわせたくないと・・・私はおばあちゃんの気持ち、優しさ考えると胸が熱くなった。
「でも、今日子のおばあちゃんの存在が無かったら私たちの青春も、思い出も、今も決してなかったもんね・・・
それに、サッカーをしていなかったら、みんな、もう、とっくに堕落してるわよ、絶対に・・・そう、私以外はね」
と子供を抱いた、私たちのせいで新体操でオリンピックに行きそびれた山本ゆかりが優しい笑いを誘う。
だから、サッカーしててみんな良かったね・・・
本当に好江おばあちゃんとサッカーに感謝だね・・・
みんなが口々に言う、だから絶対に最後まで笑顔で送ってあげようと・・・
梅雨の走り、ひんやりした静寂がみんなの思いを包みこむ。
じっと遠くを見つめるもの、目を閉じてあの日に帰りたいと思うもの、思い出に唇を噛むものと、様々な青春が混じり合う。
過ぎ去りしものを思い涙を我慢しても、どうしても頬を涙が落ちる。

三つ以上離れていると私は後輩の顔を知らない。
でも、知らない顔でも雰囲気で我が部の後輩たちと解る面々が続々とやってくる。この雰囲気も私たちから脈々と引き継がれていたと思うと、何だか良いんだか悪いんだか感慨は深い。
現役の子たちは皆、健康的に小麦色に焼けている。うっすら化粧も伝統か、女は強く美しく。後輩の子たちは口々に感謝の言葉を私たち家族に言い、私の手を握って「ありがとうございました」と涙を流す。
今ではマスコミを賑わす有名ゴルファーとかを見るようになった蒲田トレーナーも息を切らせてやって来るも、随分遠慮気味に女の園にアシンタントと共に入ってきた。
「私たちを踏み台にして、先生、随分出世したじゃん」
と順子が声をかければ、
「ちゃんと今だって、白洋女子大の専属トレーナーをさせていただいてますよ。相変わらず、みんな口が悪いなぁ・・・OGがこれだから、伝統を引き継いだ現役も口が悪くてヤンチャで大変だよ」
と照れた。
蒲田トレーナーも最近までのグランドに通っていたおばあちゃんを見て知っているわけで、本当に癌なんて、容姿体力言動から見ても、全く今でも信じられないと言い、
「やっぱり、戦争経験者は根性が座ってるっていうか頑丈っていうか、きっと、青春時代にどっかに置き忘れた『楽しさ』ちゅうか『宝物』を貪欲に探しにいくんだね、うん、やっぱ最高だね」
蒲田トレーナーも亡きマネージャーを賞賛した。
癌で言うことを効かなってきた体を引きずり、死ぬまで大好きだった「サッカー」に身を投じ、どこかに置き忘れた自分の「宝物」をグランドに見つけた・・・そんな、おばあちゃんは、きっと幸せだったんだろうと私は思った。
おばあちゃんの「癌」との闘いにおいて、有益だったのはハワイの「マナ」ではなく、「サッカー」だったのかもしれない。

 

 

仮通夜、通夜と久々に飲みまくり、学生時代に帰ったように盛り上った。母親は私たちの常識を逸脱した酒量の多さに呆れていた。
高校、大学の友達連中と焼酎を酌み交わし、顔を真っ赤にした父親は台所の隅でこっそり涙を流していた。
やっぱり、学生時代に同じ志を持った仲間は良いものだと私は心底思った。
あの私たちの珠玉の時代・・・遠くもあり、近くもあり。
私は、私とおばあちゃんの最後の時間を、通夜の晩にみんなに話した。

 

あの時、彼女は薄れ行く記憶の中で、私の手を掴んで言った。
「この年になるとね、今日子、あんまり死ぬのは怖くないのよ、ホントさ。
なんというかね・・・死は、決して終わりじゃない、そう、終わりじゃないって思うようになるのよ。
だいたい『生きる』って事はさ、ずいぶん辛いことなんだからさ、そ、楽しいこと、嬉しいことは、もっと、もっとたくさんってね・・・だから、私は八十一まで生きてこれたんだよ、きっと。
私は人生の終わりに貴方たち皆に囲まれて最高のラッキーガール、うん、最高の人生だったわよ。今日子、ありがと・・・
ねー、随分とサッカーもハワイも楽しんだね・・・最高だったなぁ。
うん、正直言うとさ、いつか、私は今日子のプレーがね、また見たいと思ってたんだ・・・今日子のパスセンスはヒデも俊輔も顔負けさ。そして、マコトがガンと決める・・・ま、いつか、またね。
そうだ、そうだ、みんなに言っておいて、マネージャーは先にあの世に行って、グランドと対戦相手を見つけてるってね。
だから、ね、今日子、みんなで、あの世でまた会おうねって・・・私は先に行ってるから。
あの世で、みんな、また、会おうねって」
そう言って、おばあちゃんは静かに目を閉じた。
私は、また、この世で、サッカーボールを蹴りたくなった。

 

  前回へ